ウォレットを超えて。インボックスを超えて。意思(Intent)のためのプロトコルへ。
本稿は、Web/A Folio およびその配送プロトコル(Transport)の背後にある設計哲学と社会技術的な必要性を概説する。真のデジタルトランスフォーメーションには、中央集権的な「プッシュ型サービス」や「クローズドなチャットツール」から脱却し、個人を中心とした、文脈を理解する(Context-Aware)分散型配送ネットワークへの移行が必要であることを論じる。
1. 「プッシュ型」デジタル・ガバメントの限界と矛盾
現代のデジタル・ガバメントが掲げる「プッシュ型サービス(申請なしで行政が先んじて支援する)」は、二つの根本的な制約によって、その多くが実現に至っていない。
1.1. 行政上の「目的外利用制限」という壁
行政データの連携は、法的に「利用目的」によって厳格に制限されている。具体的な事務上の目的がなければ、役所間でデータを動かすことはできない。そして、その目的の起点(トリガー)となるのが、古くからの「申請(Shinsei)」という手続きである。申請がなければ目的が発生せず、目的がなければプッシュ型のデータ連携も行えないという構造的矛盾がある。
1.2. 情報の鮮度の非対称性
所得の急減、予期せぬ事故、世帯状況の変化といった「真に救済が必要な瞬間」の情報の多くは、役所ではなく、本人や民間の銀行などが握っている。役所が把握する所得情報は「確定した過去」であり、現実の危機が起きてから役所に届くまでに1年以上のタイムラグが発生する。中央集権的な一つのシステムですべてを網羅しようと試みるのは、コストとプライバシーの観点から現実的ではない。
1.3. 行政手続きのロングテールとシステム化の限界
行政手続きの本質は「ロングテール」にある。年に一度、あるいは一生に一度しか発生しない照会や手続きは、個別に専用システムを構築するコストに見合わない。しかし、これらも「目的(インテント)」に基づく情報の流通という点では、他の手続きと類似した構造を持っている。アプリケーション(手続き)ごとにトランスポート(配送網)がサイロ化している現状は極めて非効率であり、確立された汎用的な経路上を、コンテキストに基づいた知的統制のもとでデータが流れる仕組みが必要である。
2. 「クリアファイル」モデルへの帰還
デジタル化以前、個人は自身の通帳、給与明細、証明書を一つの「クリアファイル」にまとめ、それを役所の窓口に持参していた。そこでは個人が、行政の壁を越えた「物理的な情報統合ハブ」として機能していた。
Web/A Folio は、このモデルをデジタルで再構成する。
- O(N) の接続性: 個人がハブとなることで、組織間で
N × (N-1) / 2の API 連携を行うコストを回避する。 - コンテキストの突合: 銀行のリアルタイムデータと行政の証明書を、個人の主権下(Folio内)で安全に突合し、必要に応じて「申請」を構成する。
3. メッセージングの再定義:SMTP と Groove を超えて
現在のメッセージングは、壊れた過去(メール)と閉ざされた現在(チャット)の間に停滞している。
3.1. 分散性を失った SMTP
SMTP は本来分散的であったが、身元の検証機能が欠如していたためにスパムの温床となった。スパムフィルタリングのコストが巨大なサービスプロバイダーに集中した結果、Gmail や Outlook といった「門番」なしには機能しない中央集権的なインフラへと形骸化した。
3.2. SaaS のサイロと Groove の挫折
Slack や Teams は組織内の対話を効率化したが、境界を越えるワークフローには適していない。かつて Ray Ozzie が Groove で描いた「組織の壁を越えるコラボレーション」の夢は、当時の技術(検証可能性の欠如、配送網の知能の不在)によって、結局は巨大なクラウドインフラ(Azure)の礎として吸収されてしまった。
3.3. エフェメラル・データハブ
Folio Transport は、サーバーを「永続的なアーカイブ」ではなく「エフェメラルなデータハブ(一時的な配送所)」と定義する。データは配送されるまでの一時的なバッファとして存在し、一定期間(TTL)で消去される。マスターデータは常に個人の手元(Folio)にあり続ける。
4. LLM時代のコンテキスト・ルーティング
Folio Transport は、Selective E2EE(選択的エンドツーエンド暗号化) を採用する。利用者が入力した機微な情報のみを暗号化し、テンプレートやエンベロープ(封筒)の構造は可視化したまま配送ネットワーク上の Agent に提示する。
4.1. 階層モデルから文脈モデルへ
1970年代に発明された OSI 参照モデルは、下位層が上位層の内容を関知しない「階層の厳格な分離」を重要視した。しかし、LLM の登場により、機械がデータの「目的、意図、役割、形式」というコンテキストを理解し、配送を制御することが可能になった。
4.2. 暗号化のパラドックスの解消
機微なデータほど暗号化したくなるが、暗号化はコンテキストを破壊し、情報の活用を阻害する。Web/A Folio では、データ構造そのものに「目的と構造」を埋め込み、隠すべき部分だけを E2EE で守る。これにより、「配送すべきもの、すべからざるもの」をネットワーク上の Agent が知的かつ柔軟にルーティングできる仕組みを提供する。
5. 結論:個人の尊厳を守る知能化ネットワーク
Web/A Folio および Transport プロトコルは、単なるツールではない。それは以下の原則に基づく社会へのマニフェストである。
- 主権の保持: 一生分のデータのマスターは個人が手元に持ち続ける。
- 目的による統合: 組織の責任分界に基づく分断ではなく、個人の必要(コンテキスト)に応じてデータが結合される。
- 知的な配送: アドレス(どこへ)ではなく、インテント(何のために)によって、データそのものが最適な Agent へとルーティングされる。
6. 結論:データフローの原点回帰
現代のデジタル・エコシステムは、データの自然な流れよりも、経済的インセンティブ(集権化による囲い込みや、過度な分散によるトークン価値の維持)によって形作られがちである。
Web/A Folio が目指すのは、初期のインターネットがそうであったように、データが本来移動すべき経路――すなわち、個人の生活というコンテキストから生まれ、特定の目的のために配送されるという「フローの必然性」に基づいた再定義である。エフェメラルなハブとコンテキスト・ルーティングの融合により、中央集権のハニーポットを避けつつ、個人の尊厳をデジタル社会の中で再定義する。